妻のことが好きかわからない。「確かめる」のをやめたら見えたもの

「嫌いなのか」と聞かれたら、即答で違う。「じゃあ好きなのか」と聞かれたら、黙る。

この宙ぶらりんは、はっきり冷めている状態より、ある意味で苦しい。冷めたなら冷めたで対処の記事がある(妻を愛せないで書いた)。でも「わからない」は、どの記事の対象にもならず、自分の感情なのに自分で読めないという気持ち悪さだけが残る。

結婚9年目の現時点での結論を先に書くと、「好きかどうか」は確かめようとするほどわからなくなる。確かめるのをやめてからのほうが、よほど多くのことが見えた。その経緯を書きます。

なぜ「わからない」のか

自分なりに分解した結果、わからなさの原因は3つあった。

1. 比較対象が消えている

恋愛中の「好き」には、常に比較があった。他の人といるより楽しい、会えないと物足りない。結婚9年目には比較するものが何もない。妻がいる生活しか存在しないので、「妻がいない生活より良いか」を体感で確かめる手段がない。測定器がないのに測ろうとしているのだから、わからないのは当然だった。

2. 「好き」の定義が古いまま

ときめき・高揚・独占欲。20代の頃の「好き」の定義で40代の感情を採点すれば、不合格になるに決まっている。何年目の記事で書いた通り、恋愛の高揚は脳の仕様として数年で終わる。終わった後の感情には別の名前(安心、信頼、慣れ、情)がついていて、どれも「好き」の旧定義にヒットしない。だから検索しても「わからない」になる。

3. 日常に感情を観測する瞬間がない

業務連絡と育児で埋まった一日に、妻への感情が動く場面がそもそも組み込まれていない。感情がないのではなく、観測機会がない。これは後で効いてくる話。

「確かめる」系の方法を試して全滅した話

ネットにある「好きか確かめる方法」は一通り試した。結果を正直に。

全滅した理由は今ならわかる。どれも「既にある感情を発見する」前提の方法で、こちらの問題は感情の在庫ではなく観測機会の欠如だったから。

代わりにやったこと: 判定の保留と、観測機会の設置

発想を変えて、「好きかどうかの判定は1年保留する」と決めた。判定をやめると、毎晩の自問自答という不毛な残業が消える。これだけで楽になった。

その上で、感情が動く可能性のある場面を意図的に置いた。中身は他の記事に書いたものと同じで、夜15分の雑談時間共通の新規入荷妻が「妻役」以外でいる時間

半年くらい経った頃、妻が職場の理不尽な話を珍しく感情的に話した夜に、「この人が損をするのは嫌だな」とはっきり思った瞬間があった。ときめきではない。でも初めて、観測に成功した感情だった。

「好きかわからない」と悩んでいた頃の自分に言うなら、わからないのは感情が死んでいるからではなく、感情が動く場面を生活から撤去してしまっているから。先に場面を戻せ、判定はその後でいい。

それでも観測ゼロが続くなら

観測機会を置いて1年経っても何も動かない、あるいは動くのは嫌悪だけ、という場合は話が別で、それは「わからない」ではなく答えが出ている状態かもしれない。その場合は愛情のない夫婦でもやっていけるか倦怠期と離婚の見分け方に進んでください。

あと、これは何度も書いていることだが、妻に限らず何に対しても感情が動かないなら、夫婦の問題ではなく心身の問題(抑うつ)の可能性を先に疑うこと。


「好きかわからない」は、答えを出すべき試験問題ではなく、観測所が壊れているという設備の問題でした。設備は直せる。判定は、急がなくていい。